平成29年‐‐‐‐‐御鎮座1082年


御由緒

拝殿

藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。
(藤崎八旛宮 社記による)

藤崎八旛宮のは、天文11年(1542)、後奈良天皇宸筆の勅額に拠るものである。創建以来、歴世朝廷の御尊崇はもとより、世々の国司、地頭、藩主から万民に至るまで広く信仰をあつめ一国の宗廟と称され、神威は赫赫として四隣に輝いた。往時の社殿は壮大を極め、修造は常に勅命によって、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていた。それらの実情は、社蔵の文書記録に詳しく記されている。南北朝時代と戦国時代には、群雄の陣営となり或いは戦場と化して荒廃した時期もあったが、降って加藤氏、続いて細川氏が肥後の国守として任に就くや、共に代々崇敬殊の外篤く、当宮の造営に力を尽くし、13年を期とする式年造営修復の旧例をも復活された。その他社殿造営費をはじめ、毎年恒例の諸祭儀費に至るまで、すべて藩費をもって賄われたので、江戸時代250年間、諸事欠けることなく整備された。

藤崎八旛宮絵縁起

藤崎八旛宮絵縁起(ふじさきはちまんぐう ええんぎ)

画面は七段からなり、絵巻物のかたちを一幅のなかに上から下にならべる。

第一段
平将門の乱を描く
第二段
八幡神勧請、藤を持つ勅使の行列を描く
第三段
藤崎八旛宮の建立、鐘を地中に見出し、
第四段
鐘桜にかけるところ。磐座や藤井垣の藤、楠の大樹も描く
第五段
南北朝時代の菊池氏と文禄慶長の役の加藤清正を描く
第六段
御神幸を描く
第七段
放生会を描く

※画像をクリックしますと拡大画像がご覧頂けます。


明治十年 西南の役で焼失した様子

明治維新後、同10年(1877年)に西南の役が勃発し、熊本城と隣接する藤崎台にあった社殿は、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川渕町に移転。翌11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営を見た。
大正4年国幣小社に加列。昭和10年御鎮座1000年を迎えた際に、国幣社にふさわしい造営計画を設定し、国費の補助と氏子崇敬者の浄財とによって新たな造営に着手した。しかし、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となった。よって、昭和60年の御鎮座1050年式年大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事を進め、逐次竣成して今日の壮麗を拝するに至った。平成22年4月1日には、畏き辺りより御幣帛を賜り、應神天皇1700年式年大祭が斎行された。この記念事業として、向拝及び拝殿の漆塗りかえ工事、その他必要な事業がすすめられている。
また、この事業に続いて、本殿漆塗りかえ工事はじめ社地の整備が御鎮座1100年の式年大祭に向けて計画されている。

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