
一千年以上の歴史をもつ藤崎八旛宮の例大祭は、昔より肥後国第一の大祭と称せられ、熊本の年中行事中最大のもので、長い歴史を通じて「放生会」
「随兵」などと呼ばれて親しまれてきた。
放生会と呼ばれるのは、明治の神佛分離令で佛教行事が廃止されるまでは、藤崎宮でも放生会が執行されていたからで、今はその名のみをとどめている。
随兵と称されるのは、御神幸にお供をする列の中に、大鎧を着用し鍬形の兜を戴き馬上豊かに采配を振る随兵頭と、これに従う百騎の甲冑武者、更に長柄と称する槍を持った陣笠・陣羽織の士50人を指揮する裃・一文字笠の長柄頭、神幸奉行等の威風堂々とした武者行列の壮観を指したものである。
朝の神幸を朝随兵、夕の神幸を夕随兵と称し、それぞれ出陣の構え、帰陣の備えを象ったものと伝えられている。御神幸は卯の刻(午前6時)、御発輦。約20000名の人と70頭余の馬で行列を組み、市街の目抜き通りへ繰り出し、お旅所へ向かう。四基の御神輿を中心に粛々と進む神職や総代と白丁達、更に百騎の随兵と長柄の武者の列、この後に400年近く受け継がれている新町の獅子舞が、独特の楽を奏しながら伝統の舞を披露して進み、最後尾が呼び物の飾り馬である。

おびただしい数の馬と勢子(馬を追う人)との集団が、肥後っ子の心意気を遺憾なく発揮して、次から次に威勢よく駆け抜けていく。もともと飾り馬は、供奉神職が乗るための馬であったが、江戸時代には本宮と御旅所との距離が近かったので、乗馬せずに牽き馬として従えていた。そこで空いた鞍の上に装飾を施すようになり、それが次第に大型になって現在のような紅白または青黄などの色布で巻いた太輪の飾りとなった。この馬は、藩政時代には細川藩の高禄の家から駿馬に足軽・中間をつけて提供し、定めの駈場で俊足を競わせたので、その見物で大層な賑わいを呈した。明治以降は飾り馬も町方から奉納されるようになり、現在は氏子崇敬者団体の奉納が70頭程にもなり年々盛大を極めている。
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