
本殿

-
申殿

拝殿

楼門

神楽殿

回廊

-
手水舎

能楽殿

神徳館

社務所


武内社:摂社
- 祭神
- 武内宿祢大臣
- 由緒
- 景行、成務、仲哀、應神、仁徳の五朝に歴任して大功あり、長寿を保ち世の長人と称せらる。本宮御祭神との御縁由により攝社として奉齋。
- 例祭
- 12月3日
↑ページ先頭へ

六所宮:末社
- 祭神
- 加茂大神 春日大神 松尾大神 稲荷大神
八坂大神 貴船大神
- 由緒
- 寛永九年、豊前大守、左少将細川忠利当国移封、其の長子侍従細川光尚、産土神たるの故を以て正保元年、豊前国中津六所宮を勧請鎮齋せらる。
- 例祭
- 10月11日
↑ページ先頭へ

先師社:末社
- 祭神
- 肥後武道先師
- 由緒
- 大日本武徳会、熊本支部武徳殿の敷地内にありし先師社を、同会の解散により当所に移転。 昭和23年5月23日鎮齋す。
↑ページ先頭へ

荒人社:末社
- 祭神
- 左中将 橘能員神霊
- 由緒
- 神託により之を祀る、本宮創祀の際、神輿を奉じ総官として下向、其のまま神官に補任。社家の長官たり。
- 例祭
- 12月1日
↑ページ先頭へ

菅原社:末社
- 祭神
- 菅原道真公
- 由緒
- 文政7年月日不詳、和田萬助なる者土中より石厨子の如き物を掘り出せり、依って近傍協議し爰に鎮座すと言伝ふ。明治九年教部省第37号達に基き、同10年9月8日、熊本区寺原町より当社境内に移転。
- 社殿
- 石祠
- 例祭
- 11月25日
↑ページ先頭へ

三光宮:末社
- 祭神
- 大己貴神 少彦名神
- 由緒
- 医薬の祖神にして特に中風の病災除けに霊験いやちこに坐す。
- 例祭
- 12月1日
↑ページ先頭へ

日田社:末社
- 祭神
- 鬼蔵大夫永弘 鬼蔵大夫永興 鬼大夫永季
三毛入野神 老松神
- 由緒
- 豊後日田の郡司にして治民の事蹟顕著なり、又勇武絶倫にして相撲道を奨励せらる。旧肥後藩士財津氏祖神たるの故を以て同族相謀り当地に勧請。
- 例祭
- 10月5日
↑ページ先頭へ

灰塚社:末社
- 祭神
- 軻遇突智神
- 由緒
- 本宮御日供の灰を納むる処に火災除けの神として奉齋。故に灰塚の称あり。
- 例祭
- 11月28日
↑ページ先頭へ

御崎社:末社
- 祭神
- 素盞嗚尊
- 由緒
- 本宮勧請以前より茶臼山に祀る。旧社地藤崎台の地主神なり。本宮と共に現在地に移転
- 例祭
- 11月28日
↑ページ先頭へ

藤井恒社:末社
- 祭神
- 八旙大神
- 由緒
- 承平の昔、当宮鎮座の日、勅使持てる処の藤鞭を地中に埋め、神霊若し感応あらば必ず奇瑞あらんと祈念す。此所に挟みたる藤鞭、即ち枝葉を生ず、故に名付けて藤崎と云ふ。明治10年西南役後、本宮、当地御移転と共にその芽をこの地に移し植ゆ。
- 例祭
- 4月13日、14日、15日
↑ページ先頭へ

清原元輔歌碑
-
- 「藤崎の軒の巌に生ふる松
- いま幾千代か子の日過ぐさむ」
-
- 元輔は、寛和2年(986)京都から肥後守として着任し、永禄2年(990)まで肥後の国府(現在の二本木町)で任務を執った。ある年の正月、今の藤崎台球場の地にあった藤崎宮で『子の日の松』の行事を催し、この歌を詠んだのでそれにちなんでこの歌碑が建てられた。書は藤崎宮
官吉永千秋である。 元輔は枕草子の作者、清少納言の父で、元輔を祀った清原神社は、横手町北南にある。
↑ページ先頭へ

後藤是山句碑
-
- 「初茜 神話の阿蘇を 東に」
後藤是山(ごとうぜざん)は、明治19年(1866)大分県久住町生まれ。本名は後藤祐太郎。生涯ジャーナリストの精神で、新聞記者としてだけではなく俳人としても活躍した人物である。熊本日日新聞の前身である九州日日新聞社に勤務していた。また郷土史家としても功績を残し、「肥後国誌」の編纂や「肥後の勤王」の刊行などを行った。熊本の文化発展に尽力し、昭和26年(1951)熊本県近代文化功労者、昭和31年(1956)熊日社会賞、昭和46年(1971)勲五等瑞宝章、昭和54年(1979)熊本名誉市民にそれぞれ選ばれている。昭和61年(1986)、99歳で死去。
↑ページ先頭へ
